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阪堺電車に貸し切り乗車する集い、無事に終了しました。

ありがとうございました。

阪堺電車 奈良医大の卒業生による貸し切り乗車

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学術集会のお知らせ

第49回日本重症心身障害学会学術集会に向けて

大阪発達総合療育センター  船戸 正久(1974年卒)

 2024年11月8日(金)・9日(土)、神戸国際会議場で第49回日本重症心身障害学会学術集会を開催することになりました。テーマを私の研究テーマである「重篤な障害児・者の方々のトータルケアを多職種協働でどのように大切に支援するのか?~QOL支援とQOD支援のベスト・プラクティスを目指して~」とさせていただきました。1974年母校を卒業後37年間働きました淀川キリスト教病院から2011年に大阪発達総合療育センターへ異動し、初めて療育の世界に足を踏み入れました。そこで知ったのはLifeの新たな意味です。Lifeには「いのち」だけでなく、「生活」、「人生」の意味があるという当然の事実です。そして療育の使命は、「トータルケア(生も死も含む)を多職種協働でどのように大切に支援するのか」ということでした。
学術集会を開催するのにあたり私の頭の中にあったのは、東大寺第224世別當橋村公英氏の「奈良の生きた伝統文化を次世代へと繋いでいく東大寺の思い」というインタビュー記事でした。氏は、「お堂が沢山あっても、それを支える教えに関わり、教えを実際に生きている人がいなければ、形だけの建物が伝わっていることになってしまいます。・・人間がその文化に生きていかなければ、文化は生きた形で繋がりません。長い歴史の中で見ると、生きた形で次の時代に伝えていくという姿勢が、基本的なものとして必要だと思います」と述べています。重症心身障害学会でも小林提樹氏(島田療育園創立者)を始め多くの先達が伝えて下さった次世代に受け継いでいく文化があります。療育の世界では、糸賀一雄氏(近江学園・びわこ学園創始者)の「この子らを世の光に」、岡崎英彦氏(びわこ学園初代園長)の「本人さんはどう思てはるんやろ」という言葉が大切にされており、本人を支援の中心(ど真ん中)におくという文化が継承されています。その原点を土台として近畿を中心としたプログラム委員の皆さまに々な療育現場の問題や障害医療を語り合う企画をプログラムとして提案いただきました。
現在医療の著しい進歩の中で従来の重症心身障害児・者だけでなく、人工呼吸器や気管切開など多くの医療的ケアが必要な高度医療依存児・者の方々が増加し、療育現場や障害医療の分野でも高齢化・重症化の問題がより大きくなっています。これらの方々にはライフ・ステージに応じた専門的な多職種協働支援の提供が益々重要になっています。それは、「医療モデル」の支援だけでなく、療育や福祉と結びついた「生活モデル」の支援、教育や行政と連携した「地域モデル」の支援が必要です。児の場合は「遊び支援」『発達支援』、さらに「就学支援」、「トランジッション支援」など、者の場合は「自立支援」「意思決定支援」、「就労支援」など、そして終末期には「終の棲家」「エンド・オブ・ライフケア支援」などをキーワードで、ご本人の人権や尊厳を中心に最善の利益の考察が必要となります。
「重症心身障害児の父」といわれる小林提樹氏が、1975年刊行の「福祉の心」という本の中で、第一の医学「保健医学」、第二の医学「予防医学」、第三の医学「治療医学」、第四の医学「リハビリテーション医学」、そして第五の医学「生命医学」と名づけています。
その文章の中で、「すべては生きるための医学であるが、重症心身障害児・者や老人ばかりでなく、私たちもやがて生を終わって死を迎える運命にあるのに、なぜ生にだけ医学は執念を燃やすのであろうか。死があって生がある筈であるのに、なぜ死にだけ医学は目をつむっているのであろうか。生命科学も死を抜きにしては考えられない筈ではなかろうか。私は、そこで、死に焦点をおいた医学を提唱したい。それは、第五の医学とも称すべきものであり、しかも生命医学と命名したいところである」と述べています。
今回の学術集会では、多くの医療型障害児入所施設で行われている素晴らしいQOL(Quality of life:いのちの輝き)支援だけではなく、愛情深いQOD(Quality of death看取りの質=Quality of dignity尊厳の質)支援にも光を当てたいと考えています。最終日には、市民公開講座「共生社会におけるボッチャの役割」以外に、ファッションショー「ファッションの街、神戸からお洒落を届けます!」、特別企画「人工呼吸器ユーザーの声を聞かして」も一般公開とします。社会の中で生き生きと活動している多くの障害児・者の方々の存在を知っていただき、国が推進する合理的配慮の元で共に歩む「共生社会」の実現を目指したいと願います。是非同窓会の皆さま方のご支援を宜しくお願いします。

 

既投稿者 目次

夏目 誠 田中憲児 高橋  徳 

ユーチューブを始めました~ 昭和46年卒業 夏目 誠 

Click here for details!       同窓の先生方、見てください! ユーチューブ

 

 

無線の話 昔の遊びをまたやってみませんか? 平成4年卒 田中 憲児

Click here for details     無線の話 田中憲児(平成4年卒)

 

 

 

映画の話  炭鉱と映画    昭和47年卒 高橋 徳 

 私は北海道の旭川で生まれましたが、そこは父の大学からの出張先であったため、すぐに札幌に戻ります。父の次の赴任先は空知郡の炭鉱町でした。4才から11才までの約7年間をそこで過ごしました。当時は石炭が黒いダイヤと呼ばれ炭鉱は最盛期を迎えていました。私が通った小学校は北海道で初めて学校給食を実施した学校で、体育館を2つも持つ大きな学校でした。団塊の世代の大量入学で1年生は11組までありました。町には映画館があり、近くにあったイチイの巨木にちなんで「おんこ会館」と呼ばれていました。学校から行った鑑賞会だったのか、家族と行ったのかは定かでないのですが、そこで観た映画「禁断の惑星」(Forbidden Planet, 1956)は強烈に印象に残っています。のちにSF小説やSF映画を好むことになる原点だったのかも知れません。「注イチイの木を北海道や北東北の方言でオンコと呼ぶ」。

 当時の炭鉱では落盤事故やガス爆発事故が起こることがありました。外科部長として赴任した父も事故の際は病院から現場へ急行したようです。家にいた私自身は実際には見ていませんが。顔を真っ黒な煤だらけにした坑内用ヘルメット姿の写真が残っています。事故の時は町の隅々まで聞こえるサイレンが鳴ります。いまでも映画の中でこのサイレンを聴くことができます。その映画の名前は「わが谷は緑なりき」。ジョン・フォードが監督した1941年のアメリカ映画(How Green Was My Valley)です。その年のアカデミー賞の作品賞・監督賞など6部門で受賞した心温まる名作です。19世紀末のイギリス、ウェールズ地方のある炭鉱町で暮らした一家の波乱に満ちた物語で、一家の長女役のモーリン・オハラと牧師を演じたウォルター・ピジョンとの悲恋の物語でもあります。物語の終盤に父ギルムが入坑中に落盤事故を知らせるサイレンが鳴り響きます。兄が事故死したあと父の後を継いで抗夫になった末っ子のヒューが駆け付けますが、ギルムはヒューの腕の中で息を引き取ります。この映画は斜陽となった炭鉱町を去ろうとする年老いたヒューが最後に谷を見て懐かしい日々を回想するという形で始まります。

 石炭産業の斜陽化はそれまで隆盛を誇った町が急速に衰退しさまざまな変化を人々にもたらすという点で映画によく取り上げられます。邦画では「フラガール」(2006)が大ヒットし、ご覧になった方も多いこと思います。蒼井優の母を演じた富司純子が、炭鉱の起死回生の策として建設されたハワイアンセンターのために植えられたヤシの木を寒さから守るために各家庭のストーブを集めて回るシーンがありました。気づいた方もおられるかと思いますが、そのストーブがすべて石油ストーブだったのです。石炭の町の住民が石炭ストーブではなく石油ストーブを使っていたという場面によって炭鉱の斜陽化を象徴的に表していたのでした。ちなみに、この物語は小林一三翁が阪急電車の終点にリゾート地を目指してプールを作ったが、当時は公衆の面前で水着姿を見せることは忌避されたため、不振に陥り、そのプールを埋めた跡を舞台にしてショーを見せたのが宝塚歌劇の始まりとされていることを連想させます。

 ここまで来れば賢明な読者の中には次はあれかと思う映画があります。リトルダンサー(Billy Elliot, 2000年英国)はイギリスのいくつもの映画賞や日本アカデミー外国映画賞などをそうなめにした上に、外国映画でありながら米国アカデミー賞の主要三部門でノミネートされました。この映画で語られるセリフはとてもわかりにくい英語です。これはイギリスの北部地方の訛りで、主人公を演じた少年はオーディションを受けた人の中から「北部訛りで話せてダンスができる」という条件で選ばれました。「フラガール」では、方言指導を福島のかたがされたそうですが、いわきの人々には違和感があったとのこと、映画のなかの方言を完ぺきにするのはとても難しいことです。イギリス英語にもたくさんの訛りがあり、「マイフェアレディ」ではそれがテーマのひとつにもなっていました。「リトルダンサー」に話を戻します。サッチャー政権のもとで合理化がすすめられ、ストライキが頻発していたイギリスの炭鉱町が舞台で、父と兄が炭鉱夫のビリー少年は息子に男らしさを求める父のすすめでボクシング教室に通い始めます。ところが体育館の隅で開かれていたバレエ教室に魅せられてしまいます。父に内緒で練習を重ねるうちに上達しロンドンのバレエ団に内地留学する話が持ち上がりますが、経済的に余裕のないことからビリーは諦めかけます。息子の思いを理解した父は費用を工面するためにスト破りに加担します。はじめは反発した鉱夫仲間たちも事情を知ってビリーを応援します。数年後ロイヤル・バレエ団のプリンシパルとなったビリーは白鳥の湖の出番を待つ舞台の袖でスタッフから「お父さんが来ているよ」と伝えられます。彼を支えてくれた父や友人のために大跳躍を見せます。当時の実際のトップダンサーであったアダムクーパーの跳躍のシーンは息をのむ美しさでした。

 リトルダンサーが創作であるのに対して実話をもとにした「遠い空の向こうに」(OCTOBER SKY)は1999年のアメリカ映画です。1950年代のアメリカ、ウェストヴァージニアの炭鉱町を舞台にしていて、炭鉱の経営不振とストライキ、落盤事故などを背景に夢をかなえた少年たちを描きました。ジェイク・ギレンホールが演じたホーマー・ヒッカムは他の3人の仲間と模型のロケット作りに熱中し、父や校長の反対にもめげず担任教師の後押しもあって、全米学生科学コンテストで優勝します。のちに実際の宇宙技術者となった主人公の自伝が元になっています。応援してくれた担任の女性教師は31歳の若さでホジキン病のため他界しています。話は飛びますが、コミック「宇宙兄弟」に出てくる天文学者の金子シャロンさんはASLでした。さらに父をASLでなくし、宇宙での創薬実験に参加する女性宇宙飛行士せりかの名を冠した「せりか基金」が実際に立ち上げられました。「宇宙兄弟」は2012年に実写映画化もされています。

 話を戻して、ホーマー・ヒッカムの父親は慢性の咳をしていました。当時の炭鉱労働者の多くが石炭の粉塵が肺にたまる炭鉱夫塵肺症に悩まされていたのです。肺線維症に進行してしまうケースもありました。ところが、英国には炭鉱町で結成されたブラスバンドがあり、炭鉱の閉山と同じ月に開催された全英ブラスバンド選手権でそれが最後となるかもしれない鬼気迫る演奏をして優勝します。これを元にして作られたのが映画「ブラス」(Brassed Off, 1966)です。指揮者のダニーを演じたのはピート・ポスルスウェイトです。耳慣れない名前ですが、「ユージュアル・サスペクツ」でKobayashiを、「ローストワールド・ジュラシックパーク」で恐竜ハンターを演じた特異な顔の俳優と言えば思い出す方もあるでしょう。ダニーは閉山の知らせに落胆したあまり呼吸機能が悪化して入院します。病院の前でダニーのために”ダニーボーイ”を演奏したのはユアン・マクレガーが演じたアンディ。物語はそのアンディとダニーの息子フィル、炭鉱会社の調査員であることが発覚する女性グロリアをめぐって展開します。グロリアは閉山が数年も前から既定だったことを知り会社を辞めて退職金をバンドの決勝戦遠征の資金にします。病院を抜け出して決勝の指揮をしたダニーはサッチャー政権の炭鉱政策に対する強烈な批判をスピーチしてトロフィーの受け取りを拒否し、バンドは”威風堂々”を演奏しながら帰路につきます。

 閉山した炭鉱の鉱夫たちの多くは転職を余儀なくされましたが、中にはまだ操業を続けていた炭鉱に移籍することがありました。閉山した筑豊の炭鉱から北海道の炭鉱にわたってきた鉱夫を見事に演じたのは志村けんです。「鉄道員ぽっぽや」は志村けんが俳優として出演した唯一の映画となりました。2作目となるはずだった「キネマの神様」には代役として長年の盟友沢田研二が出演します。「ぽっぽや」(1955)で亡くした娘の成長した姿をみることになる駅長を演じた高倉健には炭鉱にまつわる映画がほかにもあります。「幸せの黄色いハンカチ」1977年。健さんは博多出身の元炭鉱夫という設定で、それまでの任侠映画路線から足を洗うきっかけとなった作品です。博多弁を話す青年欣也役に抜擢されたのが俳優としてこれが映画初出演となった歌手の武田鉄矢でした。この映画は2008年に米国でリメイクされ、欣也青年の役を若き日のエディ・レッドメインが演じました。彼は6年後に「博士と彼女のセオリー」で天才物理学者ホーキンス博士を見事に演じてアカデミー主演男優賞を獲得します。桃井かおりが特別出演しているのも見逃せません。オリジナルの邦画では炭鉱住宅の屋根の上にひるがえるたくさんの黄色いハンカチのシーンが忘れがたい名シーンとなりました。山田洋次監督は「出征兵士の無事な帰郷を願う黄色いリボンとは別の物です」と強調されていますが、最愛の家族の無事帰還を祈る人々の気持ちは国境を越えても変わりはないと思います。

 オリンピックの射撃の選手になった警察官が仕事と合宿生活などの厳しい環境のために妻と別れてしまうという悲しい設定の映画が「駅」(1981)です。黄色いハンカチから4年、渡世人や刑務所帰りを演じていた健さんはとうとう警察官の役を演じることになりました。そして赤いミニスカートの女性ばかりを狙う通り魔の犯人を追い詰めます。根津甚八が演じた犯人は、妹に会うために、炭鉱町の駅に現れます。それが函館本線の砂川駅から分岐したローカル支線の終点、上砂川駅でした。炭鉱最盛期にはたくさんの貨物用の線をもったこの駅からおよそ60年前に私は上砂川町に別れを告げ大阪にやってきました。その後一度も戻ったことはありません。閉山後は、その深い立て坑が無重力実験場として使われていたこともあります。今ではgoogleのストリートビューで歩き回ることさえ可能になりましたけれども、当時の記憶とはまったく違ってしまっているのでした。かつては栄華を誇った炭鉱町とその風景は人々の記憶から次第に薄れてきています。けれども映画の中に残された人々の暮らしや風景は永遠に残り、語り継がれていくことでしょう。

幼少時代のカジュアル写真 in 北海道

忘れる前に記録に残しましょう

懐かしい写真を共有しましょう

国内、国外、学生時代、新婚旅行、家族旅行、一人旅

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ワンダーフォーゲル縦走録

1958年蒲郡旅行

1958年吉野川旅行

1959葛城山に登りました

1959年 青山高原

1959年志摩キャンプ

1960年紀伊半島キャンプ

1962年北海道旅行

この校舎は昭和30年代の初めに複合校舎として建設された。ほどなく4階にあった図書館は、新設の図書館(画面左下に小さく見える白い建物)に移転し、さらに臨床の教授室も病院に連続した建物に移転し、この建物は基礎の研究室と3年生4年生の講義・実習に使われることになり、基礎棟と呼ばれていた。

昭和52年に新しい基礎棟が建設され、旧基礎棟の中身は移転し、代わりに臨床の研究室として使われることになった。その後老朽化が著しくなり耐震性にも欠けているため取り壊された。 写真、中央の築山も取り払われた。

 

ああ、懐かしい。クラブ、下宿仲間、講義、実習、試験勉強、通学、飲みすぎ

思い出して楽しい話や写真の原稿募集中です。ドンドンお寄せください。

あんまり凄い武勇伝の紹介は、ちょっとお控え気味に

バスケット部 栄光の輝きの歴史  昭和43年バレーボール部 近畿大会優勝

       臨床講堂前  昭和41年卒 東條俊二

1960年代の学生生活         大台診療班の回想録

スキー回想録 診療所と西医体・全医体・国体

体育祭

1960~1961年の医学部授業風景  昭和39年卒 山本公弘

   基礎医学授業  法医学実習  

いよいよ臨床実習と講義が始まって 

思い出の新聞部   美術部・キャプリース

橿生祭の源流 開学記念祭 1959年~1963年ごろ    昭和39年卒 山本公弘 

  

モニュメント「愛」除幕式  Click here 銅像除幕式 

卒業式風景   Click here   昭和39年卒業式

待ち焦がれた新校舎  Click here   奈良医大の建物の刷新

こんな不思議な試験がありました     昭和46年卒 石坂 重昭  

          Click here こんな不思議な試験がありました

紙ヒコーキが神になった話     昭和46年卒 石坂 重昭

          Click here  紙ヒコーキが神になった話 

高市郡八木町にあった協同病院を核に奈良医専が設立され

奈良医大の附属病院の前身となった

昭和20年奈良医専設立(写真は20年史より) Click here  奈良医専そして奈良医大へ  

昭和30年代~40年代の懐かしい写真が収録されています。
Click here  かつての奈良医大の建物と周辺の風景 昭和49年卒業生のアルバムより

世界的に広まったStudent Powerが奈良医大にも押し寄せました。
        Click here  昭和0年代学生運動のビラ・新聞

昭和40年代の奈良医大の学業生活の写真が収録されています。

         Click here  懐かしい昭和40年代

昭和49年 奈良医大の教授の先生方の顔写真

        Click here 1974年教授の先生方

現在のあなたに至るまでの苦労話をぜひ

毎日叱責、毎日のように成長、忘れられない患者、

あれもできるようになった、これもできるようになった

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私が育った医局 産婦人科学 (昭和41卒 東條俊二)

螺良義彦先生を囲む会 1991年(昭和41卒 東條俊二)

 

 

ぜひ現地での見聞を

○○国留学記、〇〇大学留学記

異文化体験、アパートを借りて車を買って・・・

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研究で誰も知らなかった発見に、興奮収まらず

そうだったのか、こうだったのか、解明の喜び

ついに憧れの雑誌にアクセプト!

原稿募集中です。ドンドンお寄せください

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手塚治虫さんは、奈良医大の解剖学で学位を取得しました。研究テーマは精子組織形成の超微形態で、指導教授は安澄権八郎先生(元奈良医大の学長)で、安澄先生の一連の研究は、世界的な業績として高い評価を受けました。 当時の手塚先生の実験ノ-トを見てみますと、断片的な二次元情報から、完全な立体絵図が描かれていました。頭の中の立体画像処理の能力が、他の人を抜きん出ていたのでした。ちなみに放射線科の先生方も、二次元のレントゲン写真を多数見て立体像を頭の中で組み立ててしまう能力に優れています。

歳月が流れて、安澄先生の叙勲の祝賀会があり、その時、参列者への記念品として文鎮が作られ、デザインは手塚治虫さんによる精子のレリ―フです。

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奈良医大で学んだ人なら、誰でも知っている桜の老木

 

お国自慢、 知っている、 住んだ事がある

投稿・情報を募集中です。ドンドンお寄せください

私、〇〇県に縁がありま~す

△△県が、推しで~す

初めて会ったその日から、話が弾みます。打ち解けます。

富山  富山湾の海産物の美味さを知らんのか

静岡 富士山、そして温暖な気候が人にやさしい

長野 もちろん山々が生み出す美しい自然

愛知 実は凄い活力、昔も今も

岐阜 美濃は戦国時代の歴史の宝庫、飛騨は山の中の民俗

三重 山と海と工業地帯

滋賀 県の面積の6分の1を占める琵琶湖の魅力をお楽しみください

兵庫 日本海から瀬戸内海まで、そして四国への架け橋

和歌山 山が迫る美しい海岸線が続く

徳島 誰でも知っている渦潮と阿波踊り

高知 無限に広がる海に向こうへ行ける気になる海岸

岡山 桃太郎だけではありません、温暖な気候と瀬戸の島々も

広島 広島焼きを知らいないなんて・・・

山口  日本海側の海岸線を見てください

 

 

6月15日(土)定例代議員会・通常総会が厳橿会館にて開催されました。
同時に卒後50年の昭和50年卒業生と 卒後30年の平成6年度卒業生のホームカミング企画がありました。
記念講演は、黒田知宏京都大学教授による「医療DXの現状と未来」でした。
来賓として山下奈良県知事がおこしになり、懇親会になっても意見交換をしていただきました。

総会と懇親会の様子を写真でご覧ください Click here2024総会記録写真